ところが、このササン朝ペルシアがアラブのイスラム教徒によって滅ぼされると、かつてのペルシア領土はアラブ人の王朝の支配下に置かれ、そののちトルコ人やペルシア系人種による小規模な王朝が乱立して、この国は細切れ状態になってしまうのです。ペルシア人が再び統一された国民としての意識を取り戻すには、16世紀初頭のサファヴィー朝(15011736)の樹立を待たねばなりませんでした。

ペルシャ文化(イラン)

ペルシャ文化(イラン)

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ササン朝

英国の美術評論家ハーバート・リードはペルシアの美術に触れてまず最初に、「ペルシアは、芸術史の地理的区分というものの不都合さを、おそらく他のどこの国よりもよく示している国である。」と述べています。この国の歴史や民族構成について知るほどに、「地理的区分というものの不都合さ」を深く認識せざるを得ないのです。何しろ「イラン」という国名が正式に採用されたのは、1925年のことなのですから。

アケメネス朝ペルシアの発祥の地ファース地方。ファースはファルス、パルスなどとも発音されますが、それをギリシア風に発音した「ペルシス」から「ペルシア」という名称が生まれました。