古代ペルシャ帝国

イラン文化の曙は、アーリア人の登場に始まります。

紀元前2千年紀、アーリア系のペルシャ人やメディア人などがロシアのステップ地帯から南下し、王国を築きます。

ペルシャ絨毯の文化

日本初ペルシャ絨毯のショールーム

手織り絨毯の足跡

これら古い出土絨毯のほかにも絨毯の足跡はみられます。
それは文学や絵画に残された資料によるものです。
アラブの史家タバリー(
910世紀)が言及している7世紀クテシフォン宮殿の織物「ホスロー王の春」、10世紀のペルシャの地理書、またそれ以降、中央アジア・西アジアを訪れたアラブや西洋の旅行家の記録などに散見されるさまざまな記述です。絵画のジャンルでいえば、古代遺跡のレリーフ、敦煌の壁画、宋や元の絵画、ペルシャやトルコのミニアチュール(写本の挿画―細密画)などが挙げられます。
絵画資料に関しては、ルネサンス期に宗教画、肖像画など描写が正確な写実となることで、傍証資料としての価値がおおいに高まりました。

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ペルシャ絨毯の歴史


紀元前
6世紀半ば古代ペルシャ帝国は、新たに版図とした東の地域にスグダ、パクトリシュ、ガンダラという諸州を設けた。西トルキスターンのソグディアナ、バクトリア、そして北西インドのガンダーラである。大王、諸王の王、パルサの王、カンビュセスの子キュロスは、その東中央アジアに住む遊牧民マッサゲダイを配下に収めたくなった。マッサゲダイ族の時の女王トミュリスとの戦いに敗れ、キュロスまさかの戦士、在位通算29年であった。

そのほかの出土絨毯


その後の絨毯の足跡は、東トルキスタンに残されています。

イギリスの考古学者オーレル・スタインが、楼蘭(ローラン)、吐魯番(トゥルファン)で、36世紀頃の絨毯断片を発見しています。また、
庫車(クチャ)で、5〜6世紀頃の絨毯の断片が、ドイツの東洋学者ル・コックによって発掘されています。

そして、エジプトのカイロに近いフスタートからは7〜9世紀頃のものとされる絨毯断片の数かずが出土しています。これらはいずれも乾燥地帯という特殊性の中で腐食を免れて残されたものといえるのでしょう。

やがてペルシャのアケメネス家が強大な勢力をもち、東はインダス川から西はエジプトまでを支配する大帝国を形成しました。

そして祭祀用の都ペルセポリスのレリーフには、すでに絨毯らしきものを貢ぐ姿も描かれています。
最古の絨毯がつくられた頃からすでにかなりの時が経っています。

因みにペルセポリスは、3代の王により、およそ87年間(紀元前512年頃〜前425年頃)かけて建設され、アレキサンダー大王の東征により紀元前330年に炎上します